神様って、本当にいるの?
神様は、目には見えません。
だから、「本当にいるの?」
そう思うのは、不思議なことではありません。
空を見上げたとき。海の向こうを眺めたとき。
あるいは、自分が生きている意味を考えたとき。
神様って、本当にいるんだろう。
聖書は、この問いにどう答えているのでしょう。
聖書は、神様がご自身を現されたと語ります。
神様は、何も知らせず、遠くに隠れておられる。
聖書は、そうは語りません。
私たちが知ることのできるように、ご自身を現してくださった。
そのことを、大きく三つのところから語っています。
創造された世界。
神様のみことば。
そして、御子イエス・キリスト。
まず、この世界から見てみましょう。
まず、造られたものを見ます。
朝が来ます。光が差し、海が満ち、また引いていく。
植物が育ち、たくさんの命が生きています。
私たちも、その中にいます。
聖書は、造られたものを通して、目には見えない神様の力と神性が知られると語ります。
詩篇も、天と大空が神様の御手のわざを語っていると表現します。
この世界は、造り主について何かを語っている。
そして、人の心にも目を向けます。
私たちは、ときどき立ち止まります。
「何のために生きるんだろう。」
「この人生だけで、すべてなんだろうか。」
目に見えるものだけでは、答えきれない問いがあります。
伝道者の書には、神様が人の心に「永遠」への思いを置かれたと記されています。
外の世界だけではなく、私たちの内側にもある、永遠への思い。
聖書は、そこにも目を向けています。
神様は、みことばを通してご自身を現されました。
聖書は、「初めに神が」というところから始まります。
神様の存在を長く説明してから、物語を始めるのではありません。
神様がおられる。
そして、その神様がどんな方なのか。人をどう見ておられるのか。この世界とどう関わってこられたのか。
聖書は、それを語り続けます。
だから神様を知ろうとするとき、キリスト教は聖書を開きます。
そして、御子イエス・キリストを通して。
ヨハネの福音書は、初めから神様とともにおられた「ことば」が、人となって私たちの間に来られたと語ります。
イエスさんは、人々の中を歩き、語り、人と食事をし、悲しむ人とともに涙を流されました。
見えない神様がどのような方なのか。
神様は御子イエス・キリストを通しても、ご自身を私たちに現された。
聖書は、そう語っています。
そのイエスさんについて、証しが残されました。
イエスさんは、神様について語っただけではありません。
人を憐れみ、苦しむ人に近づき、多くの人々の中で歩まれました。
そして十字架で死なれました。
けれど聖書は、三日目によみがえり、弟子たちは復活したイエスさんに出会ったと証言した、と語ります。
パウロも、多くの人に現れたことを記しています。
これは、片隅だけで語られた話ではない。
そして聖書は、「信仰」を語ります。
造られた世界を見る。
みことばを読む。
御子イエス・キリストについて知る。
そのうえで聖書は、神様に信仰をもって近づくことを語ります。
神様がおられること。そして、神様を求める人に応えてくださる方であること。
もしまだ「神様って、本当にいるの?」という問いが残っているなら、その問いを持ったまま、もう少し続きを見てみてください。
神様について考えていくと、次に気になるのは、そのことを語る「聖書」です。
この本は、いったいどんな本なのでしょう。








